及川俊哉
「時間は実在するか」(入不二基義 講談社現代新書 2002年)はイギリスの哲学者J・M・E・マクタガートが一九〇八年に書いた論文「時間の非実在性」を解説している。 マクタガートは時間を理解するしかたにはA系列とB系列の二種類があるとする。 そして、時間を考えるうえで本質的なのはA系列の方であるとする。しかし、マクタガートによればA系列はある矛盾を含んでいるので実在してはいないとされる。このことから、マクタガートは「時間は実在しない」と考えた。また、その証明もできたものと考えた。 マクタガートの「証明」には発表当時からさまざまな批判や言及が加えられている(入不二自身もマクタガートの「証明」には批判をもっている)。しかし、マクタガートの説は時間論を考えるうえでは基礎的なものとなっている。
<マクタガートの時間論の大まかな流れ> マクタガートの時間論の構成をステップ分けすると次のようになる。 ステップ1:時間のとらえ方にはA系列とB系列の二種類がある。 ステップ2:B系列だけでは時間をとらえるのに不十分である。 ステップ3:A系列だけが時間にとって本質的である。 ステップ4:しかしA系列は矛盾を抱えている。 ゴール:よって時間は実在しない。
<時間のA系列とB系列について> A系列とは、現在を視点として過去・未来を眺めるという視点である。この場合、「現在」はどこかの時点に固定された不動のものではない。 それに対してB系列は、時間的な前後関係や順序関係によって成立する系列である。通常「○○は××より前」「××は○○より後」という表現で表される。この関係は二つ以上の出来事や時点に関してでなければ成り立たない。 そして、マクタガートはB系列だけでは「時間」の核心をとらえることはできない、とする。その理由をマクタガートは、 ①「変化」が「時間」にとって本質的なもの であり、 ②B系列だけでは「変化」を説明できない からだとする。 ①の、「変化が時間にとって本質的なものだ」というのは、ものごとの「変化」がなければ時間が経過しないからである。②の結論がでるのは、B系列はあたかも数直線上に数値が「○○は××より大きい」「××は○○より小さい」という順序関係で並んでいるかのように出来事、時点を時間の順序で整列させているからである。その序列関係の系列は、そのままであり続けるしかないのであって、そこに「変化」が入り込む余地はない。 B系列はこのように固定的・永続的なものであり、「変化」を説明することはできない。
<A系列の優位性> マクタガートは「変化」を説明できるのはA系列だけであるとする。A系列についてマクタガートは次のように説明する。 ある出来事aは、いつまでも現在であり続けることは不可能である。出来事aは、いずれ過去になる。いいかえれば、aという出来事がまさに現在起こっているという特徴付けは、ある時に「真」であっても、いずれその後「偽」に変わってしまう。このような「過去ー現在ー未来」という特性によって出来事や時点をとらえるとき、その系列はA系列を形成する。たとえば「源義経の死」という歴史的な出来事も、これからおとずれる未来である状態から、まさに今生じている現在であるという状態を経て、もうすでに終わった過去であるという状態へと「変化」する。同一の出来事もB系列として眺めると不変であるのに対して、A系列としてみると「変化」するのがわかる。このようにA系列は時間の本質である「変化」をとらえることができる。マクタガート本人はこのことを「ものごとは時間の中にある限りA系列の中にある」と述べている。
<A系列の矛盾> さらにマクタガートはB系列はA系列に対してより根本的な時間把握であり、B系列はA系列に対して依存して初めて成り立つと考えている。 マクタガートは、B系列は「順序+時間」という仕方で構成されていると考える。この「時間」の部分がA系列である。マクタガートは「順序」の部分には「C系列」という呼称をつけた。つまりB系列=C系列+A系列というわけである。 マクタガートは方向性を持たない順序であるC系列こそが実在の姿であり、あとからそこに方向性を持った時間的な変化であるA系列が付け加えられることによって、ようやくふつうの意味での順序のB系列が成立するのだと考えた。 その上でマクタガートはA系列の矛盾を以下のように証明する。 1、出来事は、「過去である」「現在である」「未来である」という三つのA特性をすべて持たなくてはならない。 2、「過去である」「現在である」「未来である」という三つのA特性は「変化」を表すためには互いに排他的でなければならない。 3、A特性が出来事に適用されるならば、その出来事は互いに排他的な三つの特性をすべて持たなければならない。これは矛盾である。
「出来事は両立不可能な三つのA特性をすべて持っていなければならない」という点にマクタガートは矛盾をみる。これは、あるものが「赤色である」「青色である」「黄色である」という三つの特徴をすべて持っていなければならない事態に似ている。この三つの特徴は、A特性と同じように、互いに排他的である。両立不可能な三つの特徴をすべて持っていなければならないとしたら、それは矛盾した事態である。
マクタガートは自論に対して次のような反論を予想する。 両立不可能な特徴であっても「同時に」ではなく「契機的に」別々の「時」に帰属させられるのであれば、矛盾にはならないのではないか?
これに対してマクタガートは次のように再反論する。継起的に、ということには、B系列的な時間の観念(時間的順序関係)が入り込んでしまっている。しかし、B系列はA系列+C系列でできている。反論者はA系列を矛盾のないものとして証明するために、当のA系列を使ってしまっている。これは、悪循環になるので、間違いである。
よって、A系列は矛盾を含む。矛盾するものは存在し得ないので、A系列は存在し得ない。A系列は時間にとって本質的なものであった。したがって時間は存在し得ない。よって時間は非実在的なものであることが証明された。
[感想] マクタガートの理論でわかりづらいのは、A系列B系列といった表現であるが、自分はこれを「内側から見た時間」「外側から見た時間」と考えればいいのではないかと思う。B系列というのは、歴史年表などのように、外側から時間を眺めた場合の系列であるように思う。ただ、マクタガートはこのような年表的な時間理解を、ただの記述の羅列だと考えて、「時間」とは認めないのだろう。 マクタガートは「時間」の本質を「変化」だと考えているから、年表のように固定されてしまったものは、「時間」だとは思わないということになる。 対して、A系列は、「内側から見られた時間」だということになる。私たちは宇宙の中に存在している。宇宙の外部にでることはない。したがって実際は私たちは宇宙の中の変化の系列に含み込まれているのであり、この変化の系列を内部から推し量って「時間」と名付けているのだといえる。時間を観察しようとするとき、観察者自体が時間の中に組み込まれていることになる。この観察者の認識視座は「現在」に固定されているから、「過去」や「未来」を観察することは実際にはできない。では、観察者は「現在」ならば十分に観察することができるのか?答えは、先ほど要約で見たように、「否」である。こうして、過去・現在・未来が実際には客観的な観察の対象にならないことから、時間というものは、実在ではなく、ほんとうは観察主体が生み出した幻想の構造なのだということが理解される。 もちろんこの宇宙の事象は観察者なしでも実在する。そして因果的契機で運動変化している。しかし、その運動変化に「時間」という幻想を覆いかぶせてみているのは人間の観察の働きにすぎない。すべての宇宙の事象は実相としては時間的構造のないC系列として存在している。観察という人間の主観の働き、より具体的にいえば精神の働きが時間構造を生み出しているのだといえる。
及川 俊哉(おいかわ しゅんや) 1975年岩手県生まれ。現在は福島県在住。 2005年、12月23日、は東京駅「銀の鈴」前で突如として「ウルトラ」2代目編集長に任命され、現在に至る。 2009年 詩集『ハワイアン弁財天』(思潮社)発表。